無敵艦隊
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無敵艦隊(むてきかんたい、スペイン語Grande y Felicísima Armada、英語Spanish Armada)は、スペイン国王フェリペ2世により英国征服に出発した大艦隊。
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[編集] 名称
「無敵艦隊」はスペイン語Armada Invencibleの訳。ただしこの名称は、この艦隊を壊滅させたイングランド人が、皮肉をこめて考案した通称である。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(Grande y Felicísima Armada)」と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶ[1]。
[編集] 概要
1583年、サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサーンが艦隊計画を発案。当初の予算総額は15億2842万5498マラベディに及び、レパント海戦の予算の実に7倍余りだという。あまりの高額であり、代案としてパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの艦隊を活用することになった。
1587年4月19日、フランシス・ドレーク提督以下英国艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲した。18艘が炎上させられ6艘を拿捕された。特に水没した樽材の新規確保が難しく、生乾きのまま板を再利用したため、飲料水・食料品への被害が甚大であった。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。
スペイン艦隊は穏やかな地中海での戦闘が主で、特にレパント海戦ではガレー船により華々しい戦果を収めており、帆船への移行がなかなか進まなかった。そこで、当初の計画ガレー船40隻を4隻へと大幅に減らした。大砲も長距離射程のカルバリン砲を半数以上取り入れた。なおイギリス軍はこのカルバリン砲に特化しており、実に95%がこの大砲である。
機動性と攻撃性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置したガレアス船を導入するが、かえって安定性を得ることができず、戦闘においては無力だった。
当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃を延期。さらに2月9日、サンタ・クルス提督が死亡。海の勇者の死亡に大いに士気が下がる。彼の代わりにメディナ・シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマンが総司令官になっが、シドニア公には海戦の経験は皆無だった。
[編集] 出撃
詳細はアルマダの海戦もあわせて参照のこと
1588年5月28日、22隻のガレオン船、108隻の商船に3万人以上を乗船させたメディナ・シドニア率いる無敵艦隊がリスボンを出発。イギリス上陸を考えていた為、3万人中2万人は陸戦隊だった。7月末プリマス沖の海戦、8月8日グレイブラインの海戦を行い敗北。スコットランドを迂回して帰還を目指すも更に半分を喪失し大敗。結局スペインに帰還したのは54隻だった。死傷者は2万におよび無敵艦隊は壊滅しスペイン衰退の予兆となった。この一連の戦闘を「アルマダの海戦」と呼ぶ。
[編集] 敗因
スペインの無敵艦隊は1000トン級の大型船で多数の重砲を装備していた。それに対するイギリス艦隊は小型船で破壊力に劣る軽砲を主力としていたが射程距離は長かった(ただし重量の基準が双方で異なるため、船の大小は単純比較できない)。スペイン艦隊が、伝統的な接舷しての白兵戦に拘ったのに対し、イギリス艦隊は距離をとって砲撃を集中する戦法をとった。イギリス艦隊を指揮したのは海賊上がりのドレーク提督である。
[編集] 比喩としての「Armada」
「Armada」本来の意味は上記のスペイン艦隊であるが、転じて大艦隊の威容をあらわす比喩的な名称となった。フィクション中の艦隊(例えばSFの宇宙戦艦の艦隊など)にも用いられることがある。また、1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のサッカースペイン代表の通称としても用いられた。
[編集] 脚注
- ^ Armadaそのものはスペイン語で、これに相当する英語はnavy。ただしヨーロッパの言語では、ある国独特の組織・地位などを半ば固有名詞的に指す場合には、その国の言葉をそのまま用いる習慣がある。Czar(ロシア皇帝)、Shogun(江戸幕府の将軍)など。
