人間
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人間(にんげん)とは、社会的なありかた、関係性、人格を中心にとらえた「ひと」のことである。また、その存在のありかた全体を指すこともある。関係性に着目するために「人 - 間(あいだ)」という名称があてられたとされている。人間は「社会にあるひと」を指す言葉である。また「人間」と書いて「世の中」「世間」という意味にもなる[1]。この場合「じんかん」とも読み明治期までは「人間(じんかん)に交わる」といった表現もよく使われた。人間の社会に属さないヒトは一般に野人とも呼ばれ、人間の範疇の外にあると考えられる[2]。
アリストテレスは人間を指して社会的動物と呼んだ。現在、人間の学名は「ホモ・サピエンス Homo sapiens」(知恵のあるヒトの意)で、やはり言語や文化などの(生物学的存在以上に多くの)側面を備えているとされている[3]。この学名と同時に作られた名に「ホモ・エレクトゥス(直立するヒト)」「ホモ・ハビリス(器用なヒト)」(以上は生物学用語)というのがあり、後に社会面から捉えられた「ホモ・○○○(~するヒト)」といった造語の元となった。遊びに目を留めたホイジンガの『ホモ・ルーデンス』、「ホモ・エコノミクス(経済人)」などはその典型である。
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[編集] 性質
人間の特徴として、社会を形成する傾向、文化を持っていること、言葉を使うことなどが挙げられる。
人間は文字や言語を抽象的なシンボル(象徴)として扱ったり、論理思考(論理学)を行い、多様な事象に様々な解釈を行う。多くの研究者の主観では知能は地球上の全ての生物の中で最も高度であると考えられている。
好奇心や知識欲は比較的旺盛で、その多くは少なからず自身の関心事に対して「知ること」と「考えること」を好む性質も見られる。一般的には、様々な意味で人間自身が最も人間の関心を引くようである。
人間には、知識だけでなく、自らの精神や心にも注意を向ける個体がいる。「心のありかた」や感じ方そのものを探求するだけでなく、それを自ら積極的に変革する努力を行うこともあり、例えば瞑想や内観などを行うこともある。宗教体系を持ち、それによって生活様式を整えている人間も多い(例えばアブラハムの宗教の信者だけでも30億人を超えている)。
道具を作り利用する能力が他の生物よりも長けていることも挙げられる。現在では機械装置といった高度化した道具を作り利用する事で、ほぼ他の生物が生存不可能な極限環境でも生活することができるまでになっている。ただし極限環境での生活は一般に負担が大きいため(コスト等)、大抵は着衣のみの調節で生活可能な地域に分布している。
その他の生物的な特長としては、雑食性であることも挙げられる。農業(農耕・牧畜)・漁業などといった食糧の生産や獲得を組織的に行う事から、食物連鎖の頂点の一部にいると現在では考えられている。
生活様式は多様で、例えば食生活に限っても、肉食が多い集団、草食が多い集団、どちらも同程度に食べる集団があり、個々の違いも大きいため一概に言う事は出来ない。活動の時間帯についても、もともとは昼行性動物で暗くなれば殆ど何もしなかったが、火を使えるようになり、灯りを手に入れてからは夜間も活発に活動するようになった、とされている。この傾向は文明の発達と共に加速する傾向にあり、もっぱら夜間に行動する個体も増える傾向にある。
活動範囲は広く、熱帯雨林などの温暖な地域から、シベリア等の寒冷地帯、砂漠などの乾燥地帯など様々な場所に分布する。また道具の補助により、海中、空中、さらには地球外にまで進出している(もっとも21世紀初頭現在では月が最遠地点である)。
哺乳類の中では唯一、ほぼ全般的に直立二足歩行をすることができる。
身長は一般的に 140cm から 190cm 程度。ただし人種によってその傾向は異なる。また体毛は薄く、体温保持の補助などについては、もっぱら服を着る事で行なっている。[4]
[編集] 歴史
詳細は世界の歴史を参照
現生人類は、アフリカで生まれ、その生息範囲を次第に広げ、中近東を経由してヨーロッパやアジア、さらに氷河期などの気候の変動も影響して南アメリカまで到達した。6000-5000年前にもなると、世界の様々な地域で農業が始まり、同時期に文明が発生した。そして、文明は範囲を広げ、現代ではヒトはそのほとんどが文明の下に暮らすようになっている。(初期の文明としてはナイル川、ユーフラテス川、インダス川、黄河流域に発生したものが有名ではあるが、これらの地域のみで文明が発生したとする「世界四大文明」という概念はほぼ否定されている)。
[編集] 生活
その生息地域は極地を除くほぼ全ての地域である。特にアジアやアフリカに集中している。その中でもインドや中国の人口が特に多く、およそ三分の一を占める。
生活は民族間の差異が大きく、その中でも気候で暮らし方が違う。例えとしてみれば、日本では、沖縄などの亜熱帯気候では服が薄く、食べ物も暑さに負けないようなものが多いが、対して北海道では服を厚く着込み、食べ物は炭水化物などが多くなる。
そのため、各地域ごとにそれを探るのが適当であるが、最近はヨーロッパ、アメリカから派生した生活が主流となってきていて、違いが少なくなっている面もある。しかし、古い生活を大切にしようというスローライフ運動という運動も盛んとなり、また灯りによって夜間の活動が活発になるにつれ、生活習慣は個別化している。
[編集] 人間の特徴と人間論
人類を他の生物種から際立たせる特徴は幾つかある。最もよくかつ古くから指摘されるものは言語の発達使用と思考の能力である。知性をもつ生物は人間以外にもあるという指摘はあるが、言語の使用が人間が発達した社会をもつことを可能にした事は確かであろう。社会は大抵の場合人間相互の支配関係によって特徴付けられるため、古くから支配と権力の形態により社会を分類することが行われてきた。
言語はコミュニケーション能力として社会の基礎を与えるだけではない。人間は世界を把握・言語化しそれを操作して快適さを追求し、また、外界の変化を行っている。、あた、人間は自らについて考察を行う。人間は古来より人間自身の思考の対象としてきた。人間と人間自らの行為を考察の対象とする学問には、倫理学、歴史学、考古学、人文地理学、文化人類学、人間学、心理学などがある。
一般的ではないが、自我の発達が人格やアイデンティティの形成に繋がり、人間らしさを特徴付けるという考えもある。
[編集] 人間と遊び
人間はその社会において、生存に必要な消費物を余剰生産する段階にまで入っている。この余剰生産分は、非生産的な活動に従事する人間に供される。これら非生産的な活動は、いわゆる遊びと呼ばれる活動であるが、人間は余暇を遊ぶことで、更なる生産性の維持を可能としている。
この余暇を生み出す生産性によって維持される遊びは、いわゆる文化と呼ばれる人間を人間たらしめている特長の原点であるともされ、また、多くの人間は趣味と呼ばれる非生産的な活動様式をもっており、自身の生活を購う労働とその生産物を消費する活動とは別に、この趣味を行うことを求めている。
動物では遊びを通して自身の能力を開発する様式を持っているが、これは成長の上で実利的な意味を持つのに対して、人間の遊びは実利的側面が無い場合も多い。人間の遊びや趣味は生物的に成熟した後でも続けられ、特に社会的な価値観(→常識)においては、趣味が有る人間の方が尊重される傾向すら見られる。
なお、人間は貨幣経済によりその生産力を貨幣単位に換算し、この単位を消費することで遊ぶことが出来る。
人間を活動面から特徴付けている要素として、この遊びに注目する学問も多い。詳しくは遊びの項を参照されたい。
[編集] 人間観の遷移
今日、現代科学を信じる多くの人々は、我々人間が、猿から、ネズミのような哺乳類から、さらには、単細胞の微生物から進化してきたと知らされている。このような人間観は、ダーウィンの進化論が契機となりもたらされている。これらを最も極端な形に推し進めたものは、社会生物学の「利己的遺伝子」概念であるとされる(リチャード・ドーキンスの著『利己的な遺伝子』で広く知られるようになった)。
また、いわば有機的機械論とも受け取れる説とは別に唯物論を基にした無機的機械人間観もあり、フランスのラ・メトリーは『人間機械論』を著した。この萌芽は同じくフランスの哲学者デカルトの心身二元論に見られる。
かつては、人間自ら最も進化した生物として「万物の霊長」と称していた時代があったが、皮肉なことに大量殺戮兵器を使用した世界レベルの戦争は人間の知能の所産である科学技術が自らに牙を剥きうる事を如実に明らかにした。また産業革命の時代から続いた大量消費による自然破壊などの問題が続発し、潜在的な脅威と見なされている。これらの中で技術に対して脆弱な人間観が形成され、現在では地球的観点での人間のあるべき姿が問い直されている。
[編集] 人間の線引き
[編集] 人同士の差別
近代以前の言語では、日本語の「人間」に相当する表現が、現在の「自由人」の意で用いられ、筆者自身はそのことを意識さえしていない、ということもあった。つまり、奴隷や農奴などの存在が自明当然のこととして扱われ、人間と言う時に彼らが除外されていたことがあるのである。一部の文献の解読に際しては注意しなければならないことである。
また、かつては各国において、他民族を排斥する時など、相手の民族を貶めるため、「彼らは人間ではない」「野生の動物である」などとする発想や表現が存在していた。今日では非常に忌避される発想ではあるが、このような考え方がありふれていた時代もある。[5]その後、人権思想も広まり、このような差別的な考え方、人種差別的な考え方は現在では世界的に嫌悪されることが多くなり、公に表明されることは少なくなった。現代では文字通り非人間という観念はなく表立って表れることはないが、ナショナリズムなどが絡む問題ではレトリックとして他民族・他人種を動物に擬する、或いは結びつける言葉が飛び出すことがあり注意を要する。個人攻撃も参照。(もっとも第二次大戦後はナチズムの反省もあり大規模な傾向は減少している)
日本での問題としては、被差別部落民を指し「非人」と称していた事があった。「人非人」という表現もあったが人であって人に非(あら)ず、と言うのは矛盾しているため人という言葉はここでは2つ、生物学的な人と(自分たちの)社会に入ってない人を使い分けていた事が窺える。[6]。
[編集] 様々な基準と概念的な戯れ
人間の基準のひとつとして社会性が挙げられることが多いが、他にも文化の継承という観点から人間を把握することもある。一般に「人間」という言葉は生物学的なヒト[7]以外を指すことはまず無い。これは文化を(部分的にではなく、包括的に)継承し得るのはヒト以外には無いためでもある。
知能を備えていれば人間とする考え方も古くからあったので、今日のようにコンピュータが普及し人工知能も徐々に実現してくると、どこまでが人間でどこまでが機械装置か、というテーマも浮上してきた。それに関する哲学的問答が存在している(→チューリング・テスト)し、そういったテーマを織り込んだSF作品(フィクション)も最近では少なくない。
また主としてサイエンス・フィクションなどのフィクション類をよく読む若者世代の一部などに、空想を逞しくし、いわゆる「宇宙人」なども絡めた上で人間の線引きを話題にする者もいる。[8]
[編集] 脚注
- ^ 出典:広辞苑
- ^ 18世紀フランスで発見されたアヴェロンの野生児を始め、人間の親に育てられなかった野生児(en:Feral child)が各地で見つかることがある。
- ^ 生物学的観点だけで人間のことを探求し記述したとしても人間のことを把握したことにはならないということである。
- ^ ヒトは恒温動物であるので、体温の調節や保持そのものを被服の役割とするのは誤りである。
- ^ 勿論その時代にあっても多くの場合は相手も同じ人間である(理解し合うこともできるし、子供も作れる)ということを理屈の上では理解していたであろう。しかし感情的に同類と見なすことができなかったのである。
- ^ 養老孟司『死の壁』新潮社、2004年、90~94項
- ^ ヒト科ヒト属に属するヒト
- ^ もしも 地球外生命、異人類が存在し、もしも それが独自の文化や社会(いわゆる宇宙人、地球外文明)を形成していたとした場合には、「どの段階から人間として尊重すべきか?」「彼らがその形質上において地球上の生物とは異なる存在であろうとも、その何等かの特徴を持って人間として扱うべきではないか?」「ヒトという動物の中の一種族のみが人間と言えるのか?」「文化や知能が一定レベル以上であれば人間と見なしてもよいのではないか?」などということを大真面目に考えたり議論したりしている者たちもいるということである。SF作品(あくまでフィクション)では、我々の考える所の人道と同じ概念を共有出来る生命ならばそれは即ち人間である、などとして物語を展開することなどは多々見受けられる。
[編集] 関連項目
- 視点
- ありかた、ありさま
- 行動
- 関係性
- 写真
- 擬似人間
