ウラジオストク巡洋艦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Владивостокский отряд крейсеров |
|
|---|---|
戦闘で損傷した旗艦の装甲巡洋艦ロシア |
|
| 創設 | 1903年 |
| 国名 | |
| 軍種 | 海軍 |
| 上級部隊 | バルト艦隊第1太平洋戦隊[1] |
| タイプ | 艦隊 |
| 任務 | 主要港防備、通商破壊 |
| 兵力 | 一等巡洋艦4 隻 補助巡洋艦1 隻 水雷艇10 隻[2] |
| 作戦機 | 気球 |
| 基地 | ウラジオストク |
| 主な戦歴 | 日露戦争 |
ウラジオストク巡洋艦隊(うらじおすとくじゅんようかんたい;ロシア語:Владивостокский отряд крейсеровヴラヂヴァストークスキイ・アトリャート・クリイスィローフ)[3]は、ロシア帝国の極東・太平洋方面における戦術的艦隊合同である。ウラジオストクに根拠地を置いたロシア帝国海軍バルト艦隊の分遣隊[4]で、一等巡洋艦4 隻(装甲巡洋艦3 隻と防護巡洋艦1 隻)と補助巡洋艦1 隻を主力として編成された。一般に、ウラジオストク艦隊(Владивостокский отряд)とも呼ばれる。日本では浦塩艦隊(うらじおかんたい)[4]とも呼ばれた。1903年に編成され、1906年に解散した。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 戦力構想
ウラジオストクに根拠地を置く独立巡洋艦隊の構想は、1901年3月に始められた。編成は、太平洋戦隊[1]所属の装甲巡洋艦リューリクと防護巡洋艦アドミラール・ナヒーモフ、ヴァリャーク、アスコーリトなどの組み合わせが検討されたが、最終的にリューリクの姉妹艦が極東に配備されることから、姉妹艦3 隻で分遣隊を構成することが決定された。編入予定艦はバルト海から回航され、1903年4月17日にはポルト=アルトゥール(旅順)に到着した。
1903年時点でのロシアの太平洋艦隊構想は、ポルト=アルトゥールに根拠地を置く主力艦隊と、ウラジオストクに根拠地を置く別働艦隊のふたつを柱としたものであった。具体的には、太平洋戦隊主力はポルト=アルトゥールを根拠地とする第1・2装甲艦隊(戦艦隊)、長距離偵察艦および短距離偵察艦(巡洋艦)、第1駆逐艦|艦隊水雷艇隊および防備部隊からなる「戦闘部隊」と定義され、一方ウラジオストクを根拠地とするのは巡洋艦分遣隊と港湾防備部隊、ならびに補助艦艇(輸送艦)からなるグループとされた。
1901年から1903年に構想された巡洋艦隊は、その主力となる巡洋艦が元来通商破壊のための単独行動を視野に入れて設計されていたことが大きな根拠となっていた。
[編集] 分遣隊の編成
ウラジオストク巡洋艦隊は、1903年6月7日にポルト=アルトゥールで編成された。艦隊編成に際し、「海上からのウラジオストク防備」、「日本海軍艦隊戦力の一部を太平洋戦隊主力の駐留するポルト=アルトゥールから逸らすこと」、「洋上通商破壊の遂行」が任務として与えられた。
艦隊は戦隊第一司令官補将官旗を掲げた装甲巡洋艦ロシアを旗艦に、装甲巡洋艦グロモボイ、リューリク、防護巡洋艦ボガトィーリから編成された。旗艦のロシアは、戦隊第一司令官補であった海軍少将エーヴァリト・フォン・シュターケリベルク男爵が坐乗した。
これらに加えて、ウラジオストク防備部隊には同港にあった義勇艦隊所属の蒸気船ヘルソーンとモスクワも編入されることが予定されていた。また、砲艦コレーエツ、マンジュール、ボーブル、シヴーチが「要塞補助」として配備され、機雷敷設艦アレウートが機雷敷設のため、輸送艦カムチャダールとヤクートが港湾防備のため、第201号水雷艇、第202号水雷艇、第209号水雷艇[5]と6 隻の小型水雷艇[6]が港湾の防備と機雷敷設のため配備されることになっていた。
7月から8月にかけて、リューリクと防護巡洋艦ボヤーリンの先導によりさらに7 隻の水雷艇[7]がウラジオストクへ到着した。しかし、砲艦と蒸気船モスクワはウラジオストクへ来なかった。モスクワはのちにスモレンスクと称された高速蒸気船で、義勇艦隊が所有したクルーザーの中では最速の20 knの速力を誇っていた。この艦の欠如は、艦隊の行動力へ大きく影響を及ぼした。ヘルソーンも本来19.5 knの速力を持っていたが、ボイラーの不調によりこの速力の発揮は見込めず、従って実戦への投入は限定的なることが予想された。
1903年9月には、母港をポルト=アルトゥールからウラジオストクへ移した。そこでは、すでに同港にあった10 隻の水雷艇と補助巡洋艦レーナ(蒸気船ヘルソーンから改名された)がウラジオストク巡洋艦隊に編入された。こうして、ウラジオストク巡洋艦隊の戦力は総勢装甲巡洋艦が新旧3 隻、新型の防護巡洋艦が1 隻、戦力としては不安のある補助巡洋艦が1 隻、長距離航海は困難な水雷艇が10 隻となった。事実上、戦術的に有効な戦力として見込めるのは3 隻の装甲巡洋艦と防護巡洋艦1 隻だけであった。
ロシアと大日本帝国との関係は日に日に悪化しており、ウラジオストク巡洋艦隊は来るべき開戦に備え、朝鮮海峡にて訓練を積んだ。
[編集] 緒戦
最初の軍事作戦は、1904年1月18日に開始された。外洋への最初の出航は、新たに艦隊司令官に任命されたニコライ・レイツェンシュテイン海軍大佐の総指揮の下、1月27日に遂行された。作戦の目的は日本艦隊をポルト=アルトゥールと同港のロシア艦隊主力から逸らすことであった。しかし、艦隊主力との通信が攪乱を受けたため、巡洋艦艦隊はその後の任務を単独で遂行することになった。
1904年2月8日には、日本艦隊のポルト=アルトゥール奇襲により日露戦争が開始された。ウラジオストク巡洋艦隊は、それまでの艦体を白く煙突を黄色に塗装した「平時塗色」から、カモフラージュとなる青みがかったオリーブの戦時色に塗り替えた。翌2月9日には、巡洋艦隊は砕氷艦の助けを借りてウラジオストクを離脱し、予てよりの計画通り朝鮮半島と日本列島との間の日本の海上交通路上で活発な通商破壊戦を展開した。手始めに、ウラジオストク巡洋艦隊は本州沖にて日本の近海航路蒸気船を撃沈した。しかし、その途上ボガトィーリは激しい時化に遭い、重大な損傷を受けて半月以上を修理に費やした。
2月24日には、ステパン・マカロフ第1太平洋艦隊司令官よりカール・イェッセン海軍少将が艦隊長官に任命された。陸軍に対する補給を海上輸送に頼らなければならなかった日本に対し、イェッセンは神出鬼没の通商破壊作戦を展開し、大いにこれを悩ますこととなった。その行動範囲は日本近海にまで及び、ときには東京沖にまで姿を現したことすらあった。そのため日本近海も日本船舶にとって安全とは言えず、本州からごく近い海域でたびたび日本船が襲撃され、撃沈された。
イェッセンの任官した2月24日から3月2日にかけて、巡洋艦隊は2回目の遠征を実施した。この作戦は成果を挙げることをできなかったが、これが日本艦隊を引き寄せる結果となった。
3月7日、上村彦之丞海軍中将率いる日本海軍第2艦隊は、装甲巡洋艦出雲、八雲、吾妻、磐手、浅間、防護巡洋艦笠置、吉野で以ってウラジオストクを砲撃し、その海域に留まった。さらに、支援の防護巡洋艦5 隻と10 隻の駆逐艦も終結した。圧倒的戦力を誇る日本艦隊の攻撃目標を、ポルト=アルトゥールの主力艦隊から自らの方へ逸らすというウラジオストク巡洋艦隊の目標はここに達成されたのである。
[編集] 熾烈な戦い
4月8日から14日にかけて、4 隻の巡洋艦は水雷艇2 隻を伴って朝鮮半島近海の日本の海上交通水域において急襲作戦を遂行し、3 隻の輸送船を撃沈した。
日本艦隊との遭遇のリスクを考慮し、4月23日から4月28日にかけて実施された3回目の出撃は旧式のリューリクを除いた3 隻で遂行された。リューリクは、わずか17 knの速力しか保証できなかったためである。リューリクの代わりに、2 隻の水雷艇が巡洋艦隊に同行した。ウラジオストク巡洋艦隊は、無線機の沈黙と濃い霧のお蔭でわずかな小型蒸気船を除いて日本艦隊の目を逃れることに成功し、日本艦隊のまったくの目と鼻の先で軍用輸送船を捕捉し、これを撃沈した。4月25日には萩浦丸、4月26日には金州丸がウラジオストク巡洋艦隊の攻撃により撃沈された。「霧こそ信頼できる我らが同盟者である。」定期電信はイェッセン提督の言葉を打電した。
しかしながら、この言葉が悲劇を生んだ。ロシア艦隊を助けた霧に対しては細心の警戒が必要であり、ひとたび誤れば大災害が生じるのである。5月15日、霧中を10 knで進んでいたボガトィーリは航路を誤り、危険海域に踏み入れた。そして、アムール湾のブリューサ岬において岩礁に衝突、艦体に破孔が生じ、着底した。これが、艦隊にとって最初の戦力損失となった。結局、この艦は終戦まで修理を終えることができなかった。
旅順港閉塞作戦を行う日本軍に対し、ウラジオストク巡洋艦隊は主力艦隊を支援するため、ポルト=アルトゥールへ巡洋艦を派遣した。5月31日から16昼夜間、ロシア、グロモボイ、リューリクの3 隻は対馬海峡と太平洋上において通商破壊作戦を実行し、その途上日本艦隊に遭遇して撃ち合いとなった。一方、ウラジオストク巡洋艦隊に所属した水雷艇隊もまた、日本の海上交通路上で単独あるいは巡洋艦と協同した通商破壊作戦を遂行した。6月15日には、巡洋艦隊が日本の近衛歩兵連隊を載せた輸送船出雲丸と常陸丸を撃沈した(常陸丸事件)。7月17日から8月2日にかけては、6 隻のスクーナーを撃沈し、加えて軍事物資を密輸していたイギリスの蒸気船ナイト・コマンダーとドイツの蒸気船テアを撃沈した。
1904年7月30日には、艦隊司令官のニコライ・スクルィドロフ海軍大将より主力艦隊がポルト=アルトゥールを脱出するという情報が寄せられた。ウラジオストク巡洋艦隊は主力艦隊が包囲を破るのを支援するため、ピョートル・ベゾブラーゾフ海軍中将指揮下、巡洋艦3 隻、水雷艇3 隻からなる分遣隊を編成し、ウラジオストクを出港した。8月1日には、蔚山沖で上村中将指揮下の装甲巡洋艦4 隻と防護巡洋艦2 隻からなる第2艦隊と激しい戦闘となった(蔚山沖海戦)。この海戦でYe・A・トルーソフ海軍大佐指揮[8]のリューリクは英雄的な最期を遂げることとなった。ウラジオストク巡洋艦隊の士官と水兵たちは戦闘において非凡な技量と剛毅を示し、精度の高い射撃により日本の装甲巡洋艦に重度の損傷を与えた。戦闘は5時間以上に亙って続けられた。速力に劣るリューリクは集中的な攻撃を受けた。リューリクは重度の損傷を受けて速力を失っていったが降伏せず、乗員とともに沈没した。残る2 隻は幾度も反転しリューリクへの支援を続けていたが、その沈没が確認されると、已む無くウラジオストクへ帰港した。戦闘の結果、ロシア、グロモボイともに重度の損傷を負った。
[編集] 戦争後半
その後、ウラジオストク巡洋艦隊は戦闘練習訓練と修理に日々を費やすこととなった。1904年12月20日にポルト=アルトゥールの主力艦隊が潰滅すると、第一太平洋戦隊本体の消滅によりウラジオストク巡洋艦隊はその名を引き継いで太平洋巡洋艦隊(Отряд крейсеров в Тихом океане)と名を改めた。[4]
1905年4月25日にはロシアとグロモボイは修理を終え、日本列島近海へ軍事任務を帯びて出航した。そして、3日間の内に4 隻のスクーナーを撃沈した。しかし、5月11日には定期的な哨戒航海においてグロモボイが触雷、大破した。
1905年夏には、太平洋巡洋艦隊は艦船独立分遣隊(Отдельный отряд судов)の指揮権下に入り、ウスリー湾の防備に当たることとなった。司令官は、ウラジオストク港のニコライ・グレーヴェ海軍少将が就任した。また、日本海海戦を生き残ってウラジオストクに逃げ込んだ二等巡洋艦アルマース、水雷艇グローズヌイ、ブラーヴイも分遣隊に編入された。
11月11日には、海軍参謀司令部よりボガトィーリ、グロモボイ、ロシアは南週航路経由でバルト海へ帰還するよう指令が出た。リーバウへ到着したのち、1906年3月30日には合同分遣隊は解散され、艦船はバルト艦隊へ編入された。
[編集] 評価
ウラジオストク巡洋艦隊は、戦時において優れた戦績を残した。遂行した作戦は日本海において6回、太平洋において1回、ポルト=アルトゥール艦隊の脱出作戦で1回であった。特に通商破壊においては目覚しい戦果があり、輸送船3 隻、蒸気船5 隻、スクーナー8 隻、武器密輸を行っていた蒸気船2 隻を撃沈した、その中には、3200 tの出雲丸、6175 tの常陸丸が含まれた。また、合わせて4 隻の蒸気船とスクーナーを洋上で拿捕し、戦利艦としてウラジオストクへ回航させた。ポルト=アルトゥールへは1000 人以上の将兵を上陸させ、280 mm砲弾18 発を揚陸した。
ウラジオストク巡洋艦隊のこうした働きにより、日本は日本海上の物資輸送を諦めざるを得なくなった。また、日本は重要戦略地点であるポルト=アルトゥールから遙かに離れた朝鮮海峡に、第2艦隊という相当の戦力を割かざるを余儀なくされた。
[編集] 名称
艦隊は、一般に「ウラジオストク巡洋艦隊」または「ウラジオストク巡洋艦分遣隊」と呼ばれるが、正式には時期によっていくつかの名称を持っている。
- 太平洋戦隊巡洋艦分遣隊 / Отряд крейсеров эскадры Тихого океана
- 艦隊編成当初の名称。[1][9]
- 太平洋艦隊巡洋艦隊独立巡洋艦分遣隊 / Отдельный отряд крейсеров флота Тихого океана
- 1904年2月25日からの名称。[9]
- 第1太平洋戦隊独立巡洋艦分遣隊 / Отдельный отряд крейсеров 1-й эскадры Тихого океана
- 1904年5月12日からの名称。[1][9]
- 太平洋における巡洋艦分遣隊 / Отряд крейсеров в Тихом океане
- 1904年12月20日からの名称。ポルト=アルトゥールの艦隊が事実上消滅したため。[9]
[編集] 艦船
|
装甲巡洋艦ロシア |
装甲巡洋艦グロモボイ |
装甲巡洋艦リューリク |
防護巡洋艦ボガトィーリ |
|
巡洋艦アルマース |
第203号水雷艇(但し、画像はナルゲン時代) |
||
|
第206号水雷艇(但し、画像はレーヴェリ時代) |
水雷艇グローズヌイ(手前) |
日露戦争開戦時の編成
- 一等巡洋艦
- 装甲巡洋艦ロシア - капитан 1 ранга К.П.Арнаутов
- 装甲巡洋艦グロモボイ - капитан 1 ранга Н.Д.Дабич
- 装甲巡洋艦リューリク - капитан 1 ранга Е.А.Трусов
- 防護巡洋艦ボガトィーリ - капитан 1 ранга А.Ф.Стемман 2-й
- 補助巡洋艦
- 補助巡洋艦レーナ - капитан 2 ранга А.И.Берлинский
- 水雷艇
- 第201号水雷艇(アーボ級水雷艇)
- 第202号水雷艇(アーボ級水雷艇)
- 第203号水雷艇(スーンガリ級水雷艇)
- 第204号水雷艇(スーンガリ級水雷艇)
- 第205号水雷艇(レーヴェリ級水雷艇)
- 第206号水雷艇(レーヴェリ級水雷艇)
- 第208号水雷艇(ペールノフ級水雷艇)
- 第209号水雷艇(ペールノフ級水雷艇)
- 第210号水雷艇(ペールノフ級水雷艇)
- 第211号水雷艇(ペールノフ級水雷艇)
[編集] 脚注
- ^ a b c d ここでは用語の区別を明確にするため、逐語訳を用いた。日本語文献では、「Эскадра Тихого океана」は「太平洋戦隊」ではなく「太平洋艦隊」と意訳することが多い。
- ^ 編成当初の戦力。
- ^ 「巡洋する艦隊」ではなく「巡洋艦の隊」という意味。
- ^ a b c 「отряд」は「分遣隊」という意味であるが、日本語文献ではこの隊に限り「艦隊」と意訳している。
- ^ 以上、「миноносец」。「миноноска」より大型で、「истребитель-миноносцев」(水雷艇駆逐艦)より小型の艦艇。
- ^ 「миноноска」。たんに「水雷艇」であるが、「миноносец」との区別のため「小型水雷艇」と意訳する。
- ^ 「миноносец」。
- ^ 大佐戦死後はK・P・イヴァーノフ海軍中尉が指揮。
- ^ a b c d 本文では「отряд」を「艦隊」と意訳しているが、ここでは用語の混乱を避けるため「分遣隊」と訳す。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Военная литература : Техника и оружие : Мельников Р. М. «Рюрик» был первым (ロシア語)
- Военная литература : Техника и оружие : Мельников Р. М. «Рюрик» был первым (ロシア語)
- Российский Императорский флот / IT InfoArt Stars (ロシア語)
- Цусима.ORG.RU - Повышение боеспособности владивостокского отряда крейсеров в 1904-1905 гг. - Действия Владивостокского отряда крейсеров - Библиотека (ロシア語)
- История действий на море (ロシア語)
- Владивосток в годы русско-японской войны (ロシア語)
- Российский Императорский флот / "ИнфоАрт" / На Дальний Восток. (ロシア語)
- Mорские сражения Русско-японской войны 1904-1905 (ロシア語)
- ВЛАДИВОСТОКСКИЕ КРЕЙСЕРА с.46, с.47 (ロシア語)
- ПОСЛЕДНИЙ БОЙ «РЮРИКА» с.48, с.49 (ロシア語)
- А. Царьков Русско-японская война 1904-1905гг. Боевые действия на море. (ロシア語)
- Действия владивостокских крейсеров (ロシア語)
- Бой 1 августа (ロシア語)
